台湾高座会とは

台湾高座会とは

 昭和17年当時、アジア一帯に戦線を拡大していた日本は、兵員の補充に忙しく、若年労働力が不足し、海軍が航空機生産のため関東一円で大々的に工員を募集しても、200人を得るのがやっとでした。高座海軍工廠の責任者に任命された安田中佐は、昭和17年の春、当時の台湾総督・長谷川海軍大将を訪れ、台湾で学生を募集したい旨の申入れ、それへの協力を要請しました。具体的には、募集に当って学校長や担任の教師に協力してもらうことでした。

 募集条件は、日本本土で航空機を製作しながら勉強すれば、国民学校高等科卒業生が3年で工業中学校卒業の資格を得られ、将来は航空機技師へ道が拓けるというものでした。希望すれば進学も可能というのです。中学校卒業者は3年で高等工業学校卒業の資格が与えられます。食費など生活費は一切公費で、給与も貰えるというのですから、台湾の少年たちには破格の条件に聞こえました。

 旧制工業中学卒の資格が得られ、将来は技師になる道が拓けるという点が、多くの台湾少年の向学心と夢を刺激したのです。応募の条件は、学力優秀、身体強健、道徳心強く、親の承諾のある者という4つでした。級長、副級長クラスがそろって受験し、どの地域でも激しい競争を勝ち抜かねばならなかったのです。

 台湾少年工の募集について、年端もいかない子供たちを好条件でだまして連れてきて、酷使して使い捨てたと非難する人がいます。しかし当時の海軍としては彼らを虎の子のように、大事に扱ったのです。確かに戦局の急激な悪化により、約束した条件を果たせなかったが、最初から騙すつもりではなかったのです。

 台湾少年工は見事に期待に応えた

 台湾少年工が遥々やってきた高座海軍工廠は、戦時下の資材不足もあって、彼らを全面的に受け入れる準備が出来ていませんでした。身分は学生でなく海軍軍属でした。学生服を与えられると思っていたのに、与えられたのが作業服だったのは、大きなショックでした。起床ラッパの合図で5時30分起床。寝床を整理して洗面、朝食。わずかな休息時間後は、甲板掃除という廊下や部屋の掃除でした。南国から来た防寒具を持たない台湾の子供たちには地獄のような寒さでした。多くの者が凍傷に悩まされました。

 高座海軍工廠が未整備だったために、彼らは貴重な体験をしました。それは日本全国のあらゆる航空機製造現場で、当時の日本海軍の第一戦で活躍する日本海軍の航空機をほとんど手掛けることになったことです。高い技術、仕事への忠誠心、全員が独身という身軽さ、それが台湾少年工の身上でした。日本海軍は必要なところへいつでも派遣できる技術者集団をもつことになりました。台湾少年工は各地で歓迎され、引っ張りだこの状態でした。台湾少年工の主な派遣先には次のようなものがありました。

  • 横須賀海軍技術廠 ロケットや特攻兵器「桜花」の研究開発
  • 土浦海軍航空廠 予科練 霞ヶ浦航空隊 昼夜兼行で故障機の整備
  • 大村第21空廠 マスプロ方式でのゼロ戦水上機の製造
  • 三菱航空機・名古屋製作所 ゼロ戦、雷電、1式陸攻、紫電 改の生産
  • 中島航空機製作所 日本最大の航空機生産工場 ゼロ戦、銀 河、月光(B29必殺の斜銃)
  • 川西航空機製作所 雷電 紫電改(日本海軍最後の最新鋭機 ・多大の戦果も時遅し)
  • 高座海軍工廠 雷電 各地の工場が壊滅状態になり、派遣先 から帰るも終戦

どこでも高い評価を得ました。彼らは日本内地の方が差別を感じなかったと言っています。彼らの高い技術力と熱意が正当に評価されたのです。敗戦により彼らは志半ばで帰国しましたが、私たち日本人は、この日本民族未曾有の苦闘の時期に、8,400名の台湾少年工が、自ら求めて日本本土へ渡り、この年代の日本人として最も危険な職場で種々の困難に立ち向かいながら、共に戦ったことを忘れてはならないし、民族の記録としても残さねばならないのです。

台湾高座会とは、こうした台湾少年工の皆さんが台湾の戒厳令が解除されてから結成した同窓組織です。これまで日本本土へ来てから50周年、60周年を記念して私たちは歓迎大会を開催してきました。今回は70周年でおそらく最後のものとなります。これをぜひ盛大に行いたい。皆様のご協力を心からお願いする次第です。